夜蟻雑記

俳人・赤野四羽の俳句関連雑記。

故・木村リュウジの記憶と作品

手元に、海原32号がある。故・木村リュウジが昨年10月に送ってくれたものだ。

リュウジが海原新人賞を受賞し、新同人に迎えられた記念すべき一冊である。

お礼と、後日感想を送る、という旨のメッセージが彼との最後の通信となっている。

新型コロナ禍にあって生活は落ち着かず、このブログもほとんど更新できていない状況で、結局、感想を返すことは叶わなかった。

私は生業の関係で、2019年半ばに関東へ転居した。その後、新宿のとある句会で彼と出会い、句座を共にした。とはいえ、周知のようにすぐに新型コロナ禍に飲み込まれ、実際に顔を合わせたのは数回程度である。

リュウジは最年少でありながら、俳句に関する今昔の深く広い知識を身につけ、縦横に論じる姿にはすでに一家をなす俳人そのものであった。

作品は、多彩であった。やわらかい句、硬質な句、その気になればどういうスタイルの句であっても書けたのだろうが、俳句を真摯に考えるリュウジにとっては、スタイルだけではなく、自分の俳句の芯というものを探す試行錯誤の過程だったのだと思う。

三橋敏雄の話をしたことがあった。

博覧強記のリュウジにとって、技巧に長けた敏雄の凝った句、マニアックな句を挙げて論じることはいくらでもできただろうが、彼が挙げたのは意外にも「あやまちはくりかへします秋の暮」であった。私はこの時、この俳人は深いところまで降りていくのだな、と直感した。

プライベートな話はほとんどしておらず、闘病中であったことも知らなかった。

私はSNSで彼の「夏の月耳鳴りという吃水線」という作品の鑑賞を書いているが、これは現代俳句協会への招待作品の中の一句だ。

https://twitter.com/genhaiseinenbu_/status/1333649519557308416

鑑賞で書いた「寝苦しい夏の夜、暑さだけではない重荷が心に圧し掛かっているようである。吃水線とは船と水面の境界、耳鳴りはその侵食を警告するサイレンのように鳴り響く」という文は、彼の境涯を書いたように見えるかもしれないが、あくまでも句のみから読んだものだ。

リュウジは高知への旅行が好きで、私もたまたま生まれが高知県であり、うまい料理や名物名所の話はよくした。高知の俳人、たむらちせいを好み、地元の結社を尋ねるなど、行動力にも舌を巻いた。いつかは一緒に高知で飲めたらと思っていたが、これも叶わないこととなった。

 

海原を読もう。

第3回海原新人賞受賞作のタイトルは「Border」である。先の招待作品も「吃水線」であり、彼が「境界」に関心が深いことを思わせる。コメントには“いつの間にか生まれていた「これは俳句だが、これは俳句ではない」という視点”、“そうした「線引き」をできる限りなくして”いき、“Borderless”に至りたい抱負が記されている。同感だ。一部抜粋しよう。

 

頬杖は時のほつれ目シクラメン

母の書くとめはねはらい麦の秋

ほたるがりふたりそろってひとぎらい

詳しくはないけど虹の手話だろう

台風が近づく赤いヘアゴムに

風花に舟という舟やせていく

遅き日の海を手紙と思うかな

 

生活の中の、繊細で、センチメンタルな一瞬を掴むのが巧みである。「頬杖~」「母の書く~」「ほたるがり~」は景としては珍しくないものだろうが、措辞や韻律、表記への堅実な心配りが、確固たる印象の一句を形作っている。

一方で「詳しくは~」では口語のリアリティを使いながらも、大きな飛躍を込めて想像力を刺激してくれる。「台風が~」は無造作においたような大胆な筆致が面白く、連作のなかでの緩急を生んでいる。

「風花に~」「遅き日の~」では海原らしい豊かな喩を駆使して連作を締めくくっている。やせていく「舟」は俳句、俳人を危惧しているようにも感じられ、手紙としての「海」から言葉を受け取るところでエンディングとは、憎いほどの文句ない演出といえる。

海原はいわずとしれた海程の後継誌であるが、ここでのリュウジの作品はいわゆる「前衛」とか「伝統」とかに囚われず、極めて開かれたものであると思う。彼はすでに“Borderless”の扉を開いていた。

本誌には受賞作のほか、月詠であろうか、リュウジの最新作も載っていた。

円周率3より後は熱帯魚

終わりのない円周率の無限のかなたへ、熱帯魚のように華麗に泳ぎだす。

リュウジさん、誰しも必ず行くところであるとはいえ、もっと君と句会をしたかったな。

勉強会記録「季語のない俳句の成立条件」

2018年度に「現代俳句」に掲載された私の現俳青年部勉強会報告ですが、無季俳句について参考になるかもしれませんので、資料としてこちらにも掲載いたします。

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二〇一八年一〇月十三日(土)、協会青年部および東海地区青年部の協力により、『東海ゼロ句会in犬山』が開催された。東京の協会事務所で毎月第三土曜日に開催しているunder49若手句会「ゼロ句会」の初の東海版である。六十歳未満の協会内外の若手が二十三名参加、高校・大学生や二十代の若者も多く、活発な吟行・句会となった。引き続き、犬山国際観光センターにて第百五六回勉強会が開催された。テーマを「季語のない俳句の成立条件」とし、赤野四羽と神野紗希との発表と対論後に質疑応答と自由討論を行った。

赤野はまず、芭蕉から連なる歴史の中で無季俳句がどのように認識されてきたのかを文献からまとめて発表。

まず向井去来去来抄』によれば

「先師(芭蕉)曰、ほ句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別、等無季の句有りたきもの也。」

とあり、芭蕉は季題以外の発句にも興味を示し、無季俳句を否定していなかったことがわかる。また正岡子規も『俳諧大要』では

「四季の題目は一句中に一つずつある者と心得て詠みこむを可とす但しあながちに無くてはならぬとには非ず」

と述べ、無季俳句を許容している。ただし子規の場合、

「雑の句は四季の聯想無きを以て其意味淺薄にして吟誦に堪へざる者多し只雄壯高大なる者に至りては必ずしも四季の變化を待たず」

とあるように、無季の句は浅薄になりやすいため、たとえば富士のように勇壮高大なテーマを用いることを推奨している。

次の『虚子俳話』に見られるように、季語の必要を固定化したのは高浜虚子であると考えられた。

「仮りに偶然の事から季題は俳句より離れる事が出来なくなつたとしても、それは俳句の特性として尊重すべき事実である。」

ただし、虚子は季語が必要な理由について明確には述べない。それは逆に季語の不要な場合についての根拠にもなるからだ。

たとえば寺田寅彦は『潜在意識がとらえた事物の本体』において

「流行の姿を備えるためには少なくとも時と空間のいずれか、あるいは両方の決定が必要である。季題の設定はこの必要に応ずるものである。」

と述べるが、であれば時や空間を設定できるなら季語でなくともよい、ということにもなる。

 一方、芥川龍之介

「季題は発句には無用である。しかし季題は無用にしても、詩語は決して無用ではない。(十七音の形式の力)」、

篠原鳳作は

「無季俳句の容認、不容認は詩的肺活量の差異に基づくものである。(超季の現代都市生活詠へ)」

と述べており、芭蕉や子規に近い。

すなわち『無季容認』は芭蕉や子規からつながる『伝統』であり、『有季をルール』とする考え方は虚子からの『伝統』ということになる。『伝統』というものの姿も見方を変えればひとつではない、という認識は俳句の未来を考える上でも重要なことであろうとまとめた。

次に、赤野は過去の無季俳句の構造について大きく四つの構造に分類。会場を含め意見交換を行った。

①      映像型

例:二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 金子兜太

映像型は一句全体が現す映像そのものの詩的インパクトが強く、季語を必要としないもの。金子兜太の造型論もこの型を発展させたものと考えることもできる。

②      キーワード型

例:草二本だけ生えてゐる 時間         富澤赤黄男

キーワード型は、季語ではないが強い印象や背景を持つ「詩語=キーワード」を用いることで、季語と同様に句をまとめる効果を持たせたもの。夏石番矢のキーワード論はこれに近い。

③      つぶやき型

例:なんと丸い月が出たよ窓               尾崎放哉

つぶやき型は、口語体をうまく用いることで肉声を感じさせ、詩的なインパクトを実現するもの。自由律に多い型ともいえる。

④      言葉遊び型

例:とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン     加藤郁乎

最後に言葉遊び型は、掛け言葉や音韻の効果を利用して意味と音との複雑な詩情をもたらすもの。談林から前衛へとつながる歴史を持つ。

続いて赤野の第一句集『夜蟻』から無季俳句を紹介。神野は

突然の客に水の音を聴かせる   

の、生活音や鹿威しなど、いくつかの情景が抽象化されたような映像感を指摘。赤野は「水の音」がキーワードとして機能していると述べた。

また神野が

竹林大発光し翁百人隊      

の奇抜なイメージについて問うと、赤野はかぐや姫の竹が一本ではなく大量に光っている状況に大勢の翁が駆けつける光景を説明。また裏テーマとして原発事故があると述べた。

青年部黒岩は

百鬼夜行ちょっと紅茶を飲んでから    

の構造を「キーワード+つぶやき型」と指摘し、切れや取り合わせという有季と同様のメカニズムがあることを指摘した。

次に神野は現代若手俳人の無季句10句を紹介した。

投函のたびにポストへ光入る       山口優

赤紙をありったけ刷る君に届け      外山一機

先生の背後にきのこぐも綺麗       谷雄介

ひだまりや田中に生まれなかつた僕ら   大塚凱

星がある 見てきた景色とは別に     佐藤文香

これらの句においては、現代の若い世代のある種の不安感や孤独、将来の不透明さといった感覚が表現されているが、ここにはむしろ季語を用いない不安定さが効果的であると指摘した。

また、

瓦礫の石抛る瓦礫に当たるのみ      高柳克弘

金網の先に広がる瓦礫。愛は愛だ。    福田若之

ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり  関悦史

ある星の末期の光来つつあり       神野紗希

のような無季句においては、震災や介護現場、また宇宙といった光景を表現する際に季語のあらわす自然感がうまく合致せず、結果的に無季となっているとみることができる。

南から骨のひらいた傘が来る       鴇田智哉

鴇田の場合は、もともとは「南風」という季語を用いていたが、季語に重心を置かずに景を表現するためにあえて無季にした旨を述べている。

目覚めるといつも私がいて遺憾      池田澄子

膨れ這い捲れ攫えり大津波        高野ムツオ

絶滅のこと伝はらず人類忌        正木ゆう子

最後に、神野は現代の指導的世代の無季句を紹介。ここでもやはり自我の揺らぎや災害、人類といったテーマが季語を必要としなかったとみられる。

やや駆け足であったが、無季俳句をめぐる歴史から句の構造に関する分類と議論、現代若手からベテランまでの無季句の鑑賞と、充実した一時間であった。

神野紗希 句集『すみれそよぐ』

新年明けましたね。今年もよろしくお願いいたします。

さて、年末年始、神野紗希句集『すみれそよぐ』拝読しました。

一読して思ったのは、これ、かなりコンセプチュアルな句集だな、ということです。

もちろん時系列で境涯を反映した句を並べていくというのは昔からよくある方法ではあるのですが、『すみれそよぐ』は単なる編年というよりは、かなり意識して「ビルトゥングスロマン」としての句集を構成しているように感じました。

「ビルトゥングスロマン」というのは和訳としては「教養小説」「成長小説」などといいますが、たとえばトーマスマンの『魔の山』が典型で、主人公の精神的な成長が主眼として描かれている小説を指します。

この場合は句集なので「ビルトゥングスハイク」というべきですかね。

十句ほど引用します。

 

 指・睫毛・吐息・耳朶・ラ・フランス

楽観的蜜柑と思索的林檎

つわり悪阻つわり山椒魚どろり

抱きしめてやれぬ小さき冬の蜂

羊水を鯨がよぎるクリスマス

すみれそよぐ生後0日目の寝息

今日も守宮来ている今日も夜泣きの子

産めよ殖やせよぶらんこの脚閉じよ

宇宙船にひびく子猫の咀嚼音

臍がある人間球根を植える

 

神野紗希といえば俳句甲子園出身で、青春詠の名手として知られている、といってよいでしょう。私は俳句甲子園は経験していませんが、メディアで読んだ作品からは、巧みであるがやや優等生的な印象を受けていました。

本句集においても、第一章~二章は名手としての腕をいかんなく発揮していて、恋をし、家庭を持つまでの若者の希望、不安、情熱が、確かな、それも新興俳句の研究の成果とも思われる、より自在な技術によって詠まれています。

作中主体の境涯としては結婚、出産、子育てと変遷していくわけですが、私が作品からターニングポイントを感じたのは上にも引いた

抱きしめてやれぬ小さき冬の蜂

です。

蜂といえば、神野の前句集『光まみれの蜂』であり、代表句のひとつ

ブラインド閉ざさん光まみれの蜂

があります。

「光まみれ」の措辞にみえるように極めてテクニカルな句であり、蜂は景を形成するオブジェクトにすぎません。

一方、「抱きしめて~」における蜂は単なる季語や事物ではなく、共に生きる生命、存在として捉えられています。ここで神野俳句は表面的な言語遊戯ではなく、文学としての営み、リアリティを摑んだことが明確になるのです。

句集のコンセプトとして、子育てや愛情に関する句が中心となりますが、その辺りは多くの書評が取り上げるところであるでしょうから、私としてはそこを特にはみ出た魅力の句も挙げてみました。

最後の三句、特に「産めよ殖やせよ~」については、家庭や子どもといった、俳句の中でもっとも「安全」と思われる領域が、ともすれば権力に利用されることにもなり得るという、ある種自己批判的な視線すら感じる辛辣な作品で、作中主体の「成長」が単なる「社会人的成熟」ではなく、人間としての精神的自立であることを示しています。

さて、ここまで「作中主体」なる語を何度か使いましたが、ここが本句集の難しい点で、あとがきにもあるように、作品が神野本人の境涯とリンクしていること自体は否定できないわけですが、一方で新興俳句を通過した作品の虚実を単純に規定することはできません。

実生活を「題材」とした作品、とみるのがよいでしょうが、匙加減は読者によって変わってくるのは致しかたないですね。

また、おそらくコンセプトに寄せるため、大分収録句を絞ったのではないかと想像します。句集にストーリーが生まれる反面、「なんだこりゃ」という意外性は少なくなります。この辺りは今後の句集製作においても考えどころですね。

とのように、『すみれそよぐ』はシンプルな編年体にみえて、実は句集単位でストーリーを練られたなかなか一筋縄ではいかない一冊と読みました。

俳句は一句一句作品として自立しなければならないとはいえ、句集として読む場合には当然、前後の流れが生じます。一冊の本としては、ここに工夫が必要なのは自明でしょう。

「女性の人生」的な読まれ方をされやすい面があるとは思いますが、それに留まらず、今後の俳句や句集について多くの考えるべきポイントを提供してくれる滋味深い一冊であるといえましょう。

「無風イデオロギーの片隅に」(豈60号)の公開

昨今の状況を鑑み、2017年11月発行の豈60号に寄稿した「無風イデオロギーの片隅に」をこちらで公開することにしました。

発行人の大井恒行さんにも同意を頂いております。豈60号も売り切れとなっておりますので、なかなか読まれる機会も少ない小文ですが、それなりに大事な問題について書いたのではないかと思っています。

ポストモダン思想と文学、俳句を巡る状況などにご関心のある方はぜひ。

drive.google.com

角川「俳句」11月号

珍しく、角川俳句に寄稿しております。

「今日の俳人」コーナーにて、「悪酒」七句。

お隣には瀬戸優理子さんも登場されています。

角川にはあまり載らないタイプの作品を発表できたのは意義があるんじゃないかと思います。

よろしければぜひ。

なつはづき 第一句集『ぴったりの箱』

なつはづきさんの第一句集、『ぴったりの箱』を拝読しました。なつはづきさんは第36回現代俳句新人賞受賞、「奎」に参加、「朱夏句会」代表もされています。タイトルの『ぴったりの箱』は集中の「ぴったりの箱が見つかる麦の秋」より。

 何かを片付けるのにちょうどいい入れ物があったように読めますが、表紙のイラストを見ると「箱」の意味合いが広がります。

まずは20句挙げてみます。

 

からすうり鍵かからなくなった胸

桜二分ふと紙で切る指の腹

夜に飲む水の甘さよ藍浴衣

蟻の群れわたしは羽根を捥ぐ係

少女期の果ててメロンのひと掬い

地に刺さる喪服の群れよ油照り

ゲルニカや水中花にも来る明日

立秋や猫背のような手紙来る

中古屋に天使の羽がある良夜

鶺鴒やひだまりがまず午後になる

日向ぼこ世界を愛せない鳩と

実印を作る雪女を辞める

幻の鮫と寝相の悪い君

春鹿の顔して単語帳捲る

穴馬がおーーーーっと茅花流しかな

昨日から革命中のなめくじり

かなかなや痣は気付いてより痛む

図書館は鯨を待っている呼吸

福島やプールを叩く硬き雨

白兎黒兎いて夜の嵩

 

本句集末には俳人、宮崎斗士さんの跋文が収められています。ここで宮崎さんは「身体感覚」「からだ」をはづき俳句のキーワードとして挙げており、これは的確な指摘だと想います。

ただ身体感覚といってもいろいろあり、例えば金子兜太の「いきもの感覚」もそうですし、「21世紀俳句パースペクティブ」では阿部完市俳句の身体性として韻律を挙げる議論がされていました。

はづき俳句における身体性とはなにか。本句集について私が感じたのは、「痛み」「喪失感」「居場所」ということです。

単に身体の語彙を使う、また肉体を描写するということではなく、心象あるいは喩としての身体、痛みや喪失感を感じる主体としての身体、置き所や居場所を探し求める自己としての身体、なつはづき俳句における身体性とはこのような表現手法として成立しているように思います。

一方で競馬の句のユーモア、ゲルニカや福島の句の社会的視点、昼よりも夜へ向かう心象など、まだまだ引出しがありそうです。

新宿で毎月行われているなつさん主催の朱夏句会ですが、現在は新型コロナのため主にネット開催になっています。私もちょくちょく参加させて頂いていますが、超結社の自由な句会です。ご関心ある方はぜひ。

柏柳明子 第二句集『柔き棘』

柏柳明子さんの第二句集『柔き棘』を拝読しました。

柏柳さんは「炎環」同人、「豆の木」に参加、第30回現代俳句新人賞を受賞。第一句集『揮発』をすでに出版されています。

まずは好きな作品を20句ほど。

 

無患子を拾ふきらひな子のきれい

湯ざめして根の国に入る主人公

怒りにも似たりクロール折り返し

剝くほどに母うつくしくなる林檎

朧夜のふたり洞窟にゐるごとし

ふくろふが次の世界を選びけり

踊子の闇をひらいてゆく躰

囀や部屋を四角くして返す

ジーンズのまつすぐ乾き冬の月

分身の歩いてきたり西日中

着衣とは手足はみ出すこと野分

茄子の馬客間に少し残る熱

手毬歌あかるきものの燃えやすし

母音からはじまる世界水の秋

裏声を集めて梅の花ひらく

かなかなや死者の並びし肖像画

人参をなだめるように炒めけり

柱より人あらわるる花粉症

低予算映画蓬を摘む手より

月白や手の甲回すフラメンコ

 

前句集からも萌芽はあったと思いますが、本書でよりはっきりしてきた明子俳句の特長は、「感覚の拡張」といってよいのではないでしょうか。

俳句は一般に「視覚」と相性がよいと思われています。「写生」しかり、「造型」しかり。テレビ番組でも写真との組合せがよく使われます。

人間が普段もっとも依存している感覚はおそらく視覚でしょうからこれは無理からぬことではあるのですが、言語芸術である俳句は必ずしも視覚のみに頼る必要はなく、むしろその外や奥にまだまだ手付かずの沃野があるといってよいと思います。

コーラスやフラメンコの経験をお持ちということでそれらの感覚的な鍛錬が影響しているのかもしれませんが、明子俳句には特に「音」や「動き」、「皮膚感覚」へと開いていく魅力があります。

千利休によれば芸事には「守・破・離」のプロセスがあるということで、本句集はちょうど「破」にさしかかったところではないでしょうか。掲句の中にも、いわゆる写生句から、五感へと拡張した句、五感以上の感覚に届こうとする、また直観の世界に突入しようとするものなど、多くの挑戦が感じられます。現代的語彙への取り組みも、作品の新鮮さを際立たせます。

良質の「現代俳句」、明子俳句の次なる深化を楽しみにしております。