夜蟻雑記

俳人・赤野四羽の俳句関連雑記。

神野紗希 句集『すみれそよぐ』

新年明けましたね。今年もよろしくお願いいたします。

さて、年末年始、神野紗希句集『すみれそよぐ』拝読しました。

一読して思ったのは、これ、かなりコンセプチュアルな句集だな、ということです。

もちろん時系列で境涯を反映した句を並べていくというのは昔からよくある方法ではあるのですが、『すみれそよぐ』は単なる編年というよりは、かなり意識して「ビルトゥングスロマン」としての句集を構成しているように感じました。

「ビルトゥングスロマン」というのは和訳としては「教養小説」「成長小説」などといいますが、たとえばトーマスマンの『魔の山』が典型で、主人公の精神的な成長が主眼として描かれている小説を指します。

この場合は句集なので「ビルトゥングスハイク」というべきですかね。

十句ほど引用します。

 

 指・睫毛・吐息・耳朶・ラ・フランス

楽観的蜜柑と思索的林檎

つわり悪阻つわり山椒魚どろり

抱きしめてやれぬ小さき冬の蜂

羊水を鯨がよぎるクリスマス

すみれそよぐ生後0日目の寝息

今日も守宮来ている今日も夜泣きの子

産めよ殖やせよぶらんこの脚閉じよ

宇宙船にひびく子猫の咀嚼音

臍がある人間球根を植える

 

神野紗希といえば俳句甲子園出身で、青春詠の名手として知られている、といってよいでしょう。私は俳句甲子園は経験していませんが、メディアで読んだ作品からは、巧みであるがやや優等生的な印象を受けていました。

本句集においても、第一章~二章は名手としての腕をいかんなく発揮していて、恋をし、家庭を持つまでの若者の希望、不安、情熱が、確かな、それも新興俳句の研究の成果とも思われる、より自在な技術によって詠まれています。

作中主体の境涯としては結婚、出産、子育てと変遷していくわけですが、私が作品からターニングポイントを感じたのは上にも引いた

抱きしめてやれぬ小さき冬の蜂

です。

蜂といえば、神野の前句集『光まみれの蜂』であり、代表句のひとつ

ブラインド閉ざさん光まみれの蜂

があります。

「光まみれ」の措辞にみえるように極めてテクニカルな句であり、蜂は景を形成するオブジェクトにすぎません。

一方、「抱きしめて~」における蜂は単なる季語や事物ではなく、共に生きる生命、存在として捉えられています。ここで神野俳句は表面的な言語遊戯ではなく、文学としての営み、リアリティを摑んだことが明確になるのです。

句集のコンセプトとして、子育てや愛情に関する句が中心となりますが、その辺りは多くの書評が取り上げるところであるでしょうから、私としてはそこを特にはみ出た魅力の句も挙げてみました。

最後の三句、特に「産めよ殖やせよ~」については、家庭や子どもといった、俳句の中でもっとも「安全」と思われる領域が、ともすれば権力に利用されることにもなり得るという、ある種自己批判的な視線すら感じる辛辣な作品で、作中主体の「成長」が単なる「社会人的成熟」ではなく、人間としての精神的自立であることを示しています。

さて、ここまで「作中主体」なる語を何度か使いましたが、ここが本句集の難しい点で、あとがきにもあるように、作品が神野本人の境涯とリンクしていること自体は否定できないわけですが、一方で新興俳句を通過した作品の虚実を単純に規定することはできません。

実生活を「題材」とした作品、とみるのがよいでしょうが、匙加減は読者によって変わってくるのは致しかたないですね。

また、おそらくコンセプトに寄せるため、大分収録句を絞ったのではないかと想像します。句集にストーリーが生まれる反面、「なんだこりゃ」という意外性は少なくなります。この辺りは今後の句集製作においても考えどころですね。

とのように、『すみれそよぐ』はシンプルな編年体にみえて、実は句集単位でストーリーを練られたなかなか一筋縄ではいかない一冊と読みました。

俳句は一句一句作品として自立しなければならないとはいえ、句集として読む場合には当然、前後の流れが生じます。一冊の本としては、ここに工夫が必要なのは自明でしょう。

「女性の人生」的な読まれ方をされやすい面があるとは思いますが、それに留まらず、今後の俳句や句集について多くの考えるべきポイントを提供してくれる滋味深い一冊であるといえましょう。