勉強会記録「季語のない俳句の成立条件」
2018年度に「現代俳句」に掲載された私の現俳青年部勉強会報告ですが、無季俳句について参考になるかもしれませんので、資料としてこちらにも掲載いたします。
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二〇一八年一〇月十三日(土)、協会青年部および東海地区青年部の協力により、『東海ゼロ句会in犬山』が開催された。東京の協会事務所で毎月第三土曜日に開催しているunder49若手句会「ゼロ句会」の初の東海版である。六十歳未満の協会内外の若手が二十三名参加、高校・大学生や二十代の若者も多く、活発な吟行・句会となった。引き続き、犬山国際観光センターにて第百五六回勉強会が開催された。テーマを「季語のない俳句の成立条件」とし、赤野四羽と神野紗希との発表と対論後に質疑応答と自由討論を行った。
赤野はまず、芭蕉から連なる歴史の中で無季俳句がどのように認識されてきたのかを文献からまとめて発表。
「先師(芭蕉)曰、ほ句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別、等無季の句有りたきもの也。」
とあり、芭蕉は季題以外の発句にも興味を示し、無季俳句を否定していなかったことがわかる。また正岡子規も『俳諧大要』では
「四季の題目は一句中に一つずつある者と心得て詠みこむを可とす但しあながちに無くてはならぬとには非ず」
と述べ、無季俳句を許容している。ただし子規の場合、
「雑の句は四季の聯想無きを以て其意味淺薄にして吟誦に堪へざる者多し只雄壯高大なる者に至りては必ずしも四季の變化を待たず」
とあるように、無季の句は浅薄になりやすいため、たとえば富士のように勇壮高大なテーマを用いることを推奨している。
次の『虚子俳話』に見られるように、季語の必要を固定化したのは高浜虚子であると考えられた。
「仮りに偶然の事から季題は俳句より離れる事が出来なくなつたとしても、それは俳句の特性として尊重すべき事実である。」
ただし、虚子は季語が必要な理由について明確には述べない。それは逆に季語の不要な場合についての根拠にもなるからだ。
たとえば寺田寅彦は『潜在意識がとらえた事物の本体』において
「流行の姿を備えるためには少なくとも時と空間のいずれか、あるいは両方の決定が必要である。季題の設定はこの必要に応ずるものである。」
と述べるが、であれば時や空間を設定できるなら季語でなくともよい、ということにもなる。
一方、芥川龍之介は
「季題は発句には無用である。しかし季題は無用にしても、詩語は決して無用ではない。(十七音の形式の力)」、
篠原鳳作は
「無季俳句の容認、不容認は詩的肺活量の差異に基づくものである。(超季の現代都市生活詠へ)」
と述べており、芭蕉や子規に近い。
すなわち『無季容認』は芭蕉や子規からつながる『伝統』であり、『有季をルール』とする考え方は虚子からの『伝統』ということになる。『伝統』というものの姿も見方を変えればひとつではない、という認識は俳句の未来を考える上でも重要なことであろうとまとめた。
次に、赤野は過去の無季俳句の構造について大きく四つの構造に分類。会場を含め意見交換を行った。
① 映像型
映像型は一句全体が現す映像そのものの詩的インパクトが強く、季語を必要としないもの。金子兜太の造型論もこの型を発展させたものと考えることもできる。
② キーワード型
例:草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男
キーワード型は、季語ではないが強い印象や背景を持つ「詩語=キーワード」を用いることで、季語と同様に句をまとめる効果を持たせたもの。夏石番矢のキーワード論はこれに近い。
③ つぶやき型
例:なんと丸い月が出たよ窓 尾崎放哉
つぶやき型は、口語体をうまく用いることで肉声を感じさせ、詩的なインパクトを実現するもの。自由律に多い型ともいえる。
④ 言葉遊び型
例:とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン 加藤郁乎
最後に言葉遊び型は、掛け言葉や音韻の効果を利用して意味と音との複雑な詩情をもたらすもの。談林から前衛へとつながる歴史を持つ。
続いて赤野の第一句集『夜蟻』から無季俳句を紹介。神野は
突然の客に水の音を聴かせる
の、生活音や鹿威しなど、いくつかの情景が抽象化されたような映像感を指摘。赤野は「水の音」がキーワードとして機能していると述べた。
また神野が
竹林大発光し翁百人隊
の奇抜なイメージについて問うと、赤野はかぐや姫の竹が一本ではなく大量に光っている状況に大勢の翁が駆けつける光景を説明。また裏テーマとして原発事故があると述べた。
青年部黒岩は
百鬼夜行ちょっと紅茶を飲んでから
の構造を「キーワード+つぶやき型」と指摘し、切れや取り合わせという有季と同様のメカニズムがあることを指摘した。
次に神野は現代若手俳人の無季句10句を紹介した。
投函のたびにポストへ光入る 山口優夢
先生の背後にきのこぐも綺麗 谷雄介
ひだまりや田中に生まれなかつた僕ら 大塚凱
星がある 見てきた景色とは別に 佐藤文香
これらの句においては、現代の若い世代のある種の不安感や孤独、将来の不透明さといった感覚が表現されているが、ここにはむしろ季語を用いない不安定さが効果的であると指摘した。
また、
瓦礫の石抛る瓦礫に当たるのみ 高柳克弘
金網の先に広がる瓦礫。愛は愛だ。 福田若之
ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり 関悦史
ある星の末期の光来つつあり 神野紗希
のような無季句においては、震災や介護現場、また宇宙といった光景を表現する際に季語のあらわす自然感がうまく合致せず、結果的に無季となっているとみることができる。
南から骨のひらいた傘が来る 鴇田智哉
鴇田の場合は、もともとは「南風」という季語を用いていたが、季語に重心を置かずに景を表現するためにあえて無季にした旨を述べている。
目覚めるといつも私がいて遺憾 池田澄子
膨れ這い捲れ攫えり大津波 高野ムツオ
絶滅のこと伝はらず人類忌 正木ゆう子
最後に、神野は現代の指導的世代の無季句を紹介。ここでもやはり自我の揺らぎや災害、人類といったテーマが季語を必要としなかったとみられる。
やや駆け足であったが、無季俳句をめぐる歴史から句の構造に関する分類と議論、現代若手からベテランまでの無季句の鑑賞と、充実した一時間であった。